昭和四十三年十二月二十五日 朝の御理解
御理解第七十九節 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
御理解七十九節を頂く前に、その前提として、七十八節の最後のところを頂きたいと思います。「無事《達者》で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」。ここのところをお道の信心によって、こういうおかげを頂けるぞとひとつのとなるものを身につけねばならん。ここはみんなの願いであるところ、金光様の御信心と言うのは、こういうおかげの頂かれる道だと思う。そこで御理解第七十九節を頂いてみたいと思います。「商売をするなら、‥‥‥‥ちびるものでないから働くがよい」。 成程、こういう行き方でいきゃ絶対繁盛するだろうと思うですねえ。これは商売だけの事ではないです。全ての行き方と言うものが、商売をする者がまず売り場買い場を大切にする。人が十銭かけるものなら、八銭かける。体はちびるものでないから働くがよい。一生懸命働くだけでもいけない。只安く売ると言うだけでもいけない。これはそういう在り方にならせて頂く。信心させて頂く者は、良心的であれと言う事なんだ。
ですからこれは商売に限らない。その上です、体はちびれるものでないから働くがよい。一生懸命働きを求める。そして信心させて頂く者がこれでよいかと、いつも反省させて頂いて。いつもその信心させて頂きよる者の良心をもって生活もらう。そこには自ずと、十銭のものは八銭で売らして頂くと言う信心。言わば仕入れ先と、お客さんを大事にする。ここのところを行じていくと、これはもう繁盛する事は、言わば間違いなかろうと思う。ところが私共は、どうも人より楽をしょう。人が十働くところは、五つにしとこう。人が十銭儲かるところは十一銭儲かりたい。
元の方は叩いて叩いて、人が十銭で仕入れるものなら、うちは九銭で仕入れる事を思う。いわゆる卸元を叩いて買う。そして売るのは、いくらでも利益があるように売りたいと思うものを、私共が持っておるところにです。所謂、ここで言うておられます。目先では得のようであるけれども。これが本当のおかげにつながっていかない、と言う訳です。ですから金光様の御信心頂く者は、これは商売に限った事じゃないけれども。良心的でなからなきゃならない。そういう心掛けになる事が、言うなら神の気感に適うていくのです。
教祖様はお百姓なさっておられる。お上に納める上納米でも、例えば一俵でよいものをです。今年はおかげでよく出来たからと言うて、一俵半納められた。実にその言わば、良心的なんです。例えばて言うなら、今度は思いがけなく安く仕入れさせて頂いた。普通では十銭のものを、特別に卸元の方から、勉強してもろうて、八銭で仕入れさせてもろうたから、これはお客さんに今度は、二銭勉強さしてもらうと言うような、行き方なんです。
それは馬鹿らしいごとあるけれどもです。そこに<物>が売れるからと言う事はね。もうここは<物>と言ったようなもんじゃないですね。無限のものにつながる、限りのないおかげに、つながる。そういう信心をさせて頂く行き方は‥‥。信心させて頂く者の良心と言うのは、そのままが神様の気感に適うのです。これはね、信心を抜きにしてもですよ。他所が十銭で売るものを八銭で売るなら、これはもうどやどやするごと集まりますよ。その代わり高くなると、又ピシャツと寄り付かんごとなる。
成程繁盛する事には間違いないけれども。しかし限りのないおかげにはつながらんのですよね。それは、例えば売らんかなの為に、安く売るのですから、よけい売る為に安く売るのですから。ですから自然卸元の方を、叩かなならんごとなってくる。それではね、例えば繁盛しても限りないおかげにはつながっていかない。一年勝り代勝りのおかげにはつながっていかない。信心させて頂く者の良心と言うものが、それが神の気感に適うのです。言うなら天地の気感に適うのです。
同時に最後にある働くと言う事でもそうです。体はちびれるものじゃない。神様から頂いておるこの体をです、十分にお使い下さい。そこで、私に力をお授け下さいと言う事になるのであり。この私を、十分にお使い下さいと言う事になるのです。お願いをする。どうぞ、この私に力を与えて下さい。そしてその力を、十二分にお使い下さい。これならね、神の気感に適う。『昨日久留米の岡崎さんが、御心眼を頂かれた、と言うてお届けするのです。それはね、鵜の鳥を御心眼に頂かれてね。
それがね、喉に魚が引っ掛かって出しもきらにゃ、飲み込みもきらんと言うところを頂いた。思いもせん事を頂きますねと言うて、お届けする事です。この鵜の鳥と言うのは、魚を沢山ひん飲んでそれを、出してしまう訳ですよね。ところがその鵜の鳥がですね。魚を取ったのはいいけれど。それを出そうとしよるけれども。その喉に引っ掛かって、出す事も出来ん。飲み込む事も出来んと言うような状態を、お知らせ頂いたんですよね。
どういう事でしょうかと言われる。岡崎さんそれは素晴らしいお知らせばい、と言うて、私は、今の事を申しました。「どうぞ私に力を与えて下さい」と言うて願いなさい。「そして私を、十二分にお使い廻し下さい」と言う願いを持ちなさい。鵜の鳥で言うなら、いよいよ魚取りの名人にならせて下さい。その力を与えて下さいと言うのである。そしてそれを、十分にお使い下さい。それを全部、また吐き出させてもらう。また取りに行く。それこそ体はちびれるものではないから、働くがよいと言うのは、そういう働きでなからな駄目なんだ。そういう働きでなからにゃ、いわゆる働くにならんのです。
鵜の鳥が一生懸命働く事によって、人間が助かる、他が楽になる。そういう働きになってくる限りです。神様は、もう絶対にそういう魚取りの上手な鵜の鳥であるなら、人間が大事にします。言うなら神様は鵜匠であり、私共は鵜の鳥である。それで十匹取りきるのもおりゃ、百匹取りきるのもおるのである。そこでその私にどうぞ、百匹が二百匹でも取れるような力を与えて下さい。そしてその力を、十分にお使い下さい。そういう鵜の鳥にならして頂く限り、神様が大事になさらないはずがない。人間がその鵜の鳥を大事にしないはずがない。』
私共がそういう状態になる時です。神様が氏子を、もうそれこそ、下にも置かん、大事なお取り扱いを下さるようになる。それこそ神様なみのお取り扱いを下さるようになる。鵜の鳥は馬鹿らしかごとある。折角取ったものを、みんな吐き出してしまわんならん。けれども、その鵜の鳥がです。必要なだけは、人間が必ず与えるのである。それを、私共は間違えて、沢山取ったら、それを出すまいとする。それこそ喉に引っ掛かってから、前にも後にも出来んような、事になるから、いよいよ動きが取れないようになってくる。私共が一生懸命に働かせてもらう。
そこの意味が分かったでしょうかね。私共はどうでも、その鵜の鳥にならにゃいかん。神様が鵜匠である。私共は鵜の鳥である。一生懸命働かせてもらう力を願い。そして十分に使うて頂く事が有難いと、分からしてもらう信心にならしてもらう時に、その鵜の鳥は、人間が大事にせなおかんように、そういう人間氏子の上にです。神様が限りない神愛をもって、その氏子の上に大事な取り扱いをなさる事は間違いがない。体はちびるものではないから働くがよい。そういう働きが出来るようにならにゃいかん。
岡崎さんそういうお知らせを頂いて、ああたこそ言わば合楽の鵜の鳥だと、言ううよなおかげを頂きなさい。そしてもう本当に、十よりも百、百よりも千と言うような、働きの抱きれるおかげを頂いて、百よりも千の御用の出来れる御用お使い廻しの頂けれるおかげを願いなさいと言うて、お話をした事です。神様がそういうお知らせを下さると言う事はね。御理解第七十九節のような事じゃなかろうかと思う。同時に七十八節の最後のところに、「無事《達者》で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受ける事ができるぞ」と、こうおっしゃる。
ここのおかげを願わない者はおらない。ここのおかげを願うなら、例えば今日、私が申します、信心させて頂く者の良心をもって、やっていけ。そして体はちびれるものじゃないから、一生懸命働くがよいと言う。私が只今、鵜の鳥の例で申しましたような、働きになっていかなければならない。そこには、もうかぎりないものとのつながりが出来る。無尽蔵のおかげの受けられる、おかげにつながるのである。その上、もうひとつ、私は七十八節の神の気感に適うた氏子が少ないとおっしゃるが。その神の気感に適う為に、ここんところに、「神のおかげを知らぬから互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事《達者》で」とこうおっしゃっておられる。神のおかげを知らぬから、とか。
神の大恩を知ればとこうおっしゃっておられるように、いよいよ神のおかげを分からしてもらい。神様の大恩を、いよいよ分からして頂くところからです。無事《達者》、一年勝り代まさりのおかげが受けられると、こうおっしゃるのですから。ここのところの大恩を知る為にも、おかげを分からして頂く為にも、私共が信心させて頂く者の良心をもって、日常生活をさせて頂けと、こう言う訳である。そこには、神の大恩を分からしてもらえれる。神のおかげをおかげと、はっきり体験させてもらえれる、私は事が出来ると思うのです。
七十九節の御理解は、只、これを商売人に下さっておる御理解ですけれども。これは商売人だけじゃなくて、信心させて頂く者の全ての者の上にです。その前の七十八節の無事《達者》を願わん者はない。子孫繁盛を願わん者はない。代勝りのおかげを願わん者はない、のですから。そういうおかげを頂く為に、七十九節のような、生き方、在り方にならしてもらい。これは商売する者だけではない。なべて、そうである。信心させて頂く者の良心と言うものを、ここに言うてある。
そういう、信心させて頂く者の良心をもっての生活、と言うか。そういう行き方がです。そういう無事健康、子孫繁盛、のおかげにつながる。それは、それが神の気感に適うから、そういう生き方が、そういう思い方が。だから、ここのところを行じていくところにです。神の大恩を知らぬから、神のおかげを知らぬから、互い違いになってきたり、神の大恩を知れば、おかげが受けられると言う。その神の大恩も、神のおかげも分かる事が出来る為にです。この七十九節を、どうでも、目先の事を言わずにです。例えば岡崎さんじゃないですけれども。
働く力を頂いた。人が百円儲かる時には、二百円も儲かられるだけの力を頂いた。そんなら、その力を、他が楽になる為の働きにです。成程、人が百円しか儲からんところに二百円儲かる。そういう行き方だったら、儲け出す事だけは間違いがない。けれどもそういう儲け出しはです。どういう事になるかと言うと、また儲けだす、その事によってくるしまなければ、いけないような事が出来てくる、必ず。だからそういう力を頂いたら、鵜の鳥のような働きにならしてもらうと言う事。
そこんところの、私共の神様にかける願いと言うのが、どうぞ力を与えて下さいだけではなくて、力を、与えて下さい。そして私を十分にお使い下さいと言う、願い。そこには信心させて頂く者の良心があるのですから。そういう、その心が神の気感に適うのである。だからこれは、目先の事に対して、返って損になるような考え方もあるけれども。けれどもこれは、永うおかげが頂けると言うか、限りのない無尽蔵のおかげを頂く為にも、行き方を体得する事が出来、また神様もそこんところを示しておって下さる。
お互いが無尽蔵のおかげにつながるおかげ。無事健康、子孫も続き、年勝り、代勝りのおかげの受けられる、信心とは。そういう信心なんだ。年勝り代勝り、しかも無事健康であると言う事、だけを願う。これを願わん者はまたない。そんならば今日、私が申しましたようにところをです。本気で分からして頂き、本気でその事を、行の上に表していく信心を身につけていかなくてはならないと思うですよね。どうぞ。